株式会社井上塗装はお陰様で、今年で創業70年を迎えました。
70年という長い時間は決して順風満帆とはいかず、親子二代に渡りむしろ波乱万丈の時間だったと言った方が正しいかもしれません。
先代の事を思い起こしたほんの一部の事を書き連ねてみました。
昭和19年5月1日 太平洋戦争の真っ只中に創業って本当ですか?と聞かれた事がある。
激動の時代からやがて平和な時代に移り変わった。
親父は山梨県南都留郡福地村(現)富士吉田市上吉田に大正2年6月2日、十人兄妹の次男として生まれ、高等小学校を卒業後、東京のガラス屋さんに丁稚奉公に出ました。
数年してペンキ屋の職人と友達になり、いろんな話を聞いているうちに今ほどいろいろな色はなかったが建物に色を塗る事の楽しさを想像してペンキ屋になったようです。
年齢的に何故兵隊にならなかったのか聞いた時、徴兵検査で乙種合格だったので徴用工としてお国の為に働いたと言うことだ。
太平洋戦争は主に、南方の事が取りざたされているが、昭和18年頃にカムチャッカ半島が目前にある千島列島の最北端 占守島(しゅむしゅとう)に格納庫を塗りに行った時、日に日に戦況が悪くなり連隊長が「お前らは軍人ではないので本土に帰れ」と言うことで帰って来たとか。
余談だが時季になると川に鮭の遡上があり、対岸の熊と鮭の取り合いをしたとか…戦争中であってもそれなりに楽しいことがあったようだ。
そして、仲間たちと東京に引き上げて来た時今度は南方に行かないかという話があり、父親も行くつもりでいたらしいが、おふくろとの縁談話で南方へは行かなかったとの事。
思えばおふくろは救いの神であったのか。その時に南方に行った仲間たちは全員亡くなったとか。
結婚して横浜に住んでいた。そして昭和21年私が生まれました。因みに私は横浜市南区弘明寺生まれです。
昭和19年、その時の父親の仕事は横須賀の海軍工廠で大砲の砲弾の中に漆を塗っていました。
そして横浜で終戦を迎え、私が一歳ちょっとの時に親父の生まれ在所に引っ越してきました。
しかし戦後、それだけではなく片田舎にペンキを塗るような建物など有ろうはずがありません。
必然的に京浜方面に出稼ぎです。親父も生まれ育った田舎よりも東京・横浜の方が仕事仲間が居ましたから仕事には事欠きませんでした。
「出稼ぎ」今のように働いたお金は銀行振込なんて言う時代ではありませんし、俗に言う昔の職人は飲む・打つ・買うの三拍子で、田舎暮らしのおふくろ、私そして妹は言葉に言い尽くせない苦労をしました。
その親父も昭和62年3月4日この世を去るまで、人生の大先輩であると共に現存している時は私がいくら頑張っても追い越せない師匠でした。
〜追記 沿革をもう一つ〜
富士山吉田口六合目の「里見平☆星観荘」について
同じような時期に山小屋も営んでいた。横浜を留守にして山小屋に…
戦争真っ只中に富士山に登るなどとお思いであろうが、戦勝祈願とか数は多くなくとも登る人はいたらしい。「里見平」の屋号は親父が付けた。
麓から草山三里、やがて木山三里を抜けると初めて下界が見える所から里を見る平らな所から「里見平」と名付けたらしい。
結構しゃれた親父だったが結局ここでも苦労したのは、おふくろ、私、妹だったかもしれない。
この山小屋も私が五歳の頃、雪崩に跡形もなく流されてしまった。それから十数年借りの小屋で営業していたが、今の山小屋の原型は親父が作ったままの物である。
十数年前に再開したのを機会に屋号も「里見平☆星観荘」と名を変えたが、其の由縁は私が子供の頃、妹と夜になると外のベンチに寝ころび飽くことなく見ていた満天の星空から名付けた。
星の数も今より数倍多かったような気がするが、別に星の数が減ったわけじゃなく空気が汚れたせいかもしれません。
今はむしろ「里見平」より「星観荘」の屋号の方が知られるようになりました。
これも時代の流れですね。
「里見平☆星観荘」のホームページもご覧ください。
長文になりました。読んでいただき有難うございました。
二代目 井上 fの事は又の機会にしたいと思います。お楽しみに。。。