株式会社井上塗装 二代目 奮闘録(その壱)
昭和36年4月 市内の中学校をなんとか卒業、数日して叔母の営むクリーニング店に明日から行くことになった。いよいよ明日行くことになった日、おふくろに明日から行くことになり今日が最後だから山中湖に遊びに行ってくるから弁当を作ってくれるように頼み、なんとなく自転車を漕ぎ山中湖へ。
何故クリーニング屋に、田舎のことゆえペンキを塗るような家はなかったから必然的に京浜方面に親父は出稼ぎに。
今どきのように働いた給料は銀行振り込みなどということはないから俗に言う飲む・打つ・なんとかで殆ど家にはお金を持ってこなかった。たまにお金を持って帰ってくると近所の悪仲間が見つけて誘いに来る。
俗に言う花札ばくちをして一晩で無一文になり、翌朝おふくろに親父の実家に電車賃を借りに行かせてそのまま又出稼ぎに。
親父のいない間おふくろの苦労は並大抵ではなかった。富士吉田市の中で特に上吉田は他所から来たものには冷たかった。
たとえ親戚であっても例外ではなかった。おふくろだけではなく私や妹もであった。あるおばさんには山の子は町に遊びに来るなとまで言われた。
クリーニング屋は職人の世界と違い天気には関係なく仕事ができるし何にしても物をきれいにする仕事は好きだった。
それがある日突然、人生が変わることになろうとは。
最初は、山中湖の湖畔でおふくろの作ってくれた弁当を食べて帰るつもりだった。山中湖の明神前から旭ヶ丘までなんとなく行ってしまった。そこまでは普通の単なる遊びだった。
そこからが運命のままにたどる道になろうとは。
籠坂峠を上ると今は無いが白樺キャンプ場が有った。そこを左に曲がりなんとなく砂利道を暫く走っていると、どこかで見たような姿が…そこに親父が仕事をしていたのだ。
何をしに来たんだ。と問われ明日から叔母さんのところに行くからおかぁちゃんに弁当を作ってもらって山中湖に遊びに来たと言ったら、暫く無言のままの時間が過ぎ、口を開いた途端にこの軒天を塗れっ、 えっ、突然塗れって言われてもいくらペンキ屋の息子でも刷毛など持ったことはない。
俺のすることを見ていろ。おなじようにやれっ。それだけであった。最初に塗った塗料はクレオソート(防腐剤)だった。刷毛についたネタのきり方もわからず塗ったら刷毛から手首、手首から腕、腕から肩へとクレオソートが流れてきた。そして目にも。夕方帰るときは目も殆ど見えずに道路の端を走ってやっと家に辿り着いた。
何故そんなとこに行ったのか未だ謎のままだ。
家にやっと辿り着いて暫くして親父が帰ってきて開口一番、明日から弁当を作れ、fは俺と仕事をする。
えっ、明日から叔母さんのところに行くのに、そんなのは断れっ、その一言で大げさな言い方だが苦難が始まった。
まず3年半の間、雨の日も風の日も自転車で山中湖に通った。無論、空身ではなく荷台に材料を積んでただひたすら自転車を漕いだ。何回かペダルが折れて市内の自転車屋まで戻った事もある。
今でも特に忘れられないのは、山中湖村役場からゴルフ場のクラブハウスの上まで誰も歩いていない雪道を自転車押して行ったことだ。
ただ歩くだけでも難儀なのに材料、そして弁当を積んだ自転車を押しながら坂道を上った。3年半のうちバスには往復二度乗っただけだったが、なんで乗ったのか思い出せない。
「自転車」無論変速ギヤの付いた遊び用の自転車ではなく、今はほとんど見かけなくなった黒塗りのガンコなタイプだった。ペダルが折れるほど力を入れて漕がないと坂道を上れなっかったし、荷台の荷物(ペンキ・刷毛・シンナー・ボイル油・ギリジャブそして弁当)少ない時でも20s以上の荷物があった。
*最初の軒天のクレオソート塗りから後の仕事のことは又機会を見て綴ります。
株式会社井上塗装
代表取締役 井上 f